2017-02-22

私にとって「楽しく踊る」とはなんなのか。

昨年、練習を見学に来てくださった方、また来ていただきました。

ウレシすぎます。

阿波踊り練習風景左側は、自宅にいるかのようにくつろぎ、遊ぶ子供達。

右側は、お父さんに抱っこされている1歳のチビッ子に「楽しく踊れたかなぁ~」と連員が声をかけている風景。

うずうず連のモットーは、「楽しく踊る」なのです。

この「楽しく踊る」について、練習や本番中にどう楽しんだらいいのか、たまに迷い悩むことがあります。

私にとって「楽しく踊る」とはなんなのか。です。

具体的に言うと、私が阿波踊りを楽しむためには、

「型に忠実にかっこよく踊る」のか、「型そこそこに好きなように踊る」のか。

このどちらが必要なのでしょうか。

または、どちらも必要な場合どちらを軸足を置くべきなのでしょうか。

どちらでもなく、「楽しむ」とはそもそもこういうことではない!のでしょうか。

経歴があさいのですから、好きなように踊る前に型や構成をしっかりできるようになることが優先だとういうことはわかっています、、、が。

両方を実現したいのです。欲がでてきたのかもしれません。

現時点で両方を実現することは、物理的問題はさておき精神的に難しいと考えているのです。そしてこれを文章にして説明するのも難しい

もしかしたら、私ぐらいの経験ぐあいの人だと同じ悩みや違和感を感じる方いるのではないでしょうか。本番の構成を練習する連員

見てくださった人に「少し上手くなったね」と言われると、それが嬉しくて、もっとキレよく美しく、もっと威勢良く滑稽に、と考えながらガンバリます。
が、
型や踊りの構成をうまくやっている私の姿を見ている人の心境は、

「うまいけど、しかめっ面でつまらん」

なのかもしれません。
また逆に、鳴り物のリズムやその場の空気感からもズレ、気にせず踊り狂っている私の姿を見ている人の心境は、

「下手やけど、楽しい気持ちが伝わってきてなんかいいね」

なのかもしれません。

そりゃもちろん、うまいね!と、楽しそうだね!が、同時に伝わる踊りができるといいのでしょうが。

 

ん?ちょっとまてよ、
これらは「見ている人」を前提にしています。

そもそも踊り手にとっての「対象は誰?」なんでしょうか。

「神」なのか「人」なのか「己」なのか。

現代ではリズムにのり「人」前で踊っているのですが、もともといろんな説がありますが盆踊りは「仏」でした。
その「仏へ向けた踊り」とした場合、・・・んん・・・想像もつきません。(経験も資格、宗教心もありません)
なんとなく、リズムが邪魔になりそうです。儀式的で「楽しく」とはかけ離れてきます。

人に見せるために踊ることが前提にあると、踊り方や格好ばかりが気になり、私の場合物足りません。
では、「己」のためにだとどうでしょう。自己満足のためです。これだと気にせずおどれますが、みんなに迷惑かけるばかりです。かってに家で踊ってろ!です。

こんな風にたまに考えを巡らしているのです。そしてここまで考えたこの辺りで、掘り下げるとよくないと、思考をストップさせています。

が、このブログを書いているとちょっといつもと違う考えが浮かんできました。

2014年11月西海橋うず潮まつりで踊るうずうず連と大綱連

ちょっと最初に戻ります。
「忠実にかっこよく」と「好きなように」は私が実現したいことですが

それぞれの目的が違うのかもしれません。

まず最初に「型に忠実にかっこよく踊ると楽しい」は、

自らを「かっこいい」と思えるためには、自分で自分の踊りが「かっこいい」と自賛するのではなく、多くの人に「かっこいい」と評価される必要があります。そうでないと「好きなように踊る」のとなんら変わりありません。

上手くなってかっこよく踊る人と肩を並べたい! たとえ厳しく面白くない練習だとしても、その成果を本番でぶつけていく。小さな目標をクリアしていくたびに自信がつき、大きな目標に近づく期待感も高まる。忠実に、さらに評価をされながら自分なりのフォームを形作っていく。これが楽しい。練習は本番への手段。評価は成長への手段。

目的は、できなかったことができるようになる達成感です。

しかし、ウチの連は勝ち負けを競っている訳ではないので、そんなに活動に対して肩肘張りたくありません。

仲間もそう思うかもしれません。

一方「型そこそこに好きなように踊ると楽しい」は

阿波踊りに関わる時間が日常のストレスから解放される手段ひとつである為、本番も練習の延長線で、自身は常に解放的充実感に満たされます。

目的は快楽感です。

しかし仲間は、そのいつまでも進化のない私の踊りにマンネリ感を抱くことでしょう。

 

達成感と快楽感。

できることならこの二つの感覚を味わいたい。

肩肘張らずにマンネリ感なく実現すること。どうもこれが私にとって「楽しく踊る」ことのようです。

・・・・難しすぎる。
しかし、これが「私にとっての楽しく踊る」ということ。

 

・・・腑に落ちない

もう少し、腑に落ちる考え方はないだろうか。これ以上は屁理屈なのか。

・・・んん・・・・とうとう深堀してしまったようです。

 

埋めて戻さなければ。

 

「忠実にかっこよく」とか、「好きなように」とか抜きに考えると

ただただ仲間と、その時々に湧き出る共通の感情を一緒に味わいながら踊れたらいいだけなんです。
仲間と緊張感あるときは一緒にビシッとして、そうでないときも一緒にダラ〜ダラ〜っとして、です。

たまに誰かが一人の世界に入ってズレや違和感が出ても、それを仲間が連の味に変えてゆく。

 

極端にいえば、自分ではない仲間が表現していることは、私が表現していることと同じ。

 

私が表現していることは、仲間が表現してもおかしくないこと。

これはエゴかもしれませんね。(汗

なにもかも互いに感情を共有しているから、なにもかも楽しみに変かえられるような気がします。

 

あれ?

もしかすると、、仲間と同じ感情を共有しながら踊ること。かもしれません。楽しく踊るとは。

 

同じ感情を共有して踊ること。スッと心に落ちてきました。

 

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